弘計天皇(をけのすめらみこと、顕宗天皇)、大兄去来穂別天皇(おほえのいざほわけのすめらみこと、履中天皇)の孫なり。市辺押磐皇子(いちへのおしはのみこ。安康天皇3年、皇位継承争いから雄略天皇により射殺された)の子なり。母をば荑媛(はえひめ)と曰(まう)す。・・・(父が皇位継承の争いに巻き込まれ、雄略天皇に殺されると、逃げて匿れ、) 兄(いろね)億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)を勧めまして、播磨国の明石郡に向(いでま)して、倶に字(みな)を改めて丹波小子(たにはのわらは)と曰(のたま)ふ。就(ゆ)きて縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕ふ。・・・
白髪天皇(しらかのすめらみこと、清寧天皇)の二年の冬十一月に、播磨の国司(くにのみこともち)山部連(やまべのむらじ)の先祖(とほつおや)伊予来目部小楯(いよのくめべのをだて)、明石郡にして、親(みづか)ら新嘗(にひなへ)の供物(たてまつりもの)を辨(そな)ふ。適(たまたま)縮見屯倉首、新室(にひむろ、新築祝い)に縦賞(あそび)して、夜を以て昼に継げるに会ひぬ。爾(しかう)して乃ち、天皇、兄億計王に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「乱(わざはひ)を斯(ここ)に避りて、年数紀踰(あまたのとしかさな)りぬ。名を顕し貴(たふときこと)を著さむこと、方に今宵に属(あた)れり」とのたまふ。・・・倶に室の外に就(ゆ)きて、下風(くらしり)に居(ま)します。屯倉首、命(ことおほ)せて竃傍(かまわき)に居(す)ゑて、左右(こなたかなた)に秉燭(ひとも)さしむ。夜深(ふ)け酒酣(たけなは)にして、次第(ついでついで)儛(ま)ひ訖(をは)る。・・・是に、小楯、絃(こと)撫(ひ)きて、秉燭せる者に命せて曰はく、「起ちて儛へ」といふ。・・・億計王、起ちて儛ひたまふこと既に了りぬ。天皇、次に起ちて、自ら衣帯(みそみおび)を整(ひきつくろ)ひて、室寿(むろほぎ)して曰はく、
築(つ)き立つる 稚室(わかむろ)葛根(かづね)、築き立つる 柱は、此の家君(いへのきみ)の 御心(みこころ)の鎮(しづまり)なり。取り挙ぐる 棟梁(むねうつはり)は、此の家長の 御心の 林なり。取り置ける 椽橑(はへき、垂木)は、此の家長の 御心の斉(ととのほり)なり。取り置ける 蘆■(えつり、わら屋根の下地)は、此の家長の 御心の平(たひらか)なるなり。取り結へる 縄葛(つなかづら)は、此の家長の御寿(みいのち)の堅(かたまり)なり。取り葺ける 草葉(かや)は、此の家長の 御富(みとみ)の餘なり。
出雲(いづも、播磨国葛磨郡出雲田)は 新墾(にひはり)、新墾の 十握稲(とつかしね)を、浅甕(あさらけ)に 醸(か)める酒(おほみき)、美(うまら)にを 飲喫(やら)ふるかわ。吾が子等(こども)。
あしひきの 此の傍山(かたやま)に、牡鹿(さをしか)の角 挙(ささ)げて 吾が儛(まひ)すれば、旨酒(うまさけ) 餌香(ゑか)の市(今の大阪府南河内郡美陵町国府)に 直(あたひ)以て買はぬ。手掌(たなそこ)も摎亮(やらら)に 拍ち上げ賜ひつ、吾が常世等(とこよたち)。 |
寿(ほ)き畢(おは)りて、乃ち節(ことのをり)に赴(あは)せて歌(みうたよみ)して曰(のたま)はく、
いなむしろ(稲蓆) かはそひやなぎ(川副楊)
みづ(水)ゆ(行)けば なび(靡)きお(起)きた(立)ち そのね(根)はう(失)せず |
小楯、謂りて曰はく、「可怜(おもしろ)し。願はくは復聞かむ」といふ。天皇、遂に殊儛(たつづのまひ)作(し)たまふ。誥(たけ)びて曰はく、
倭(やまと)は そそ茅原(ちはら)、浅茅原(あさちはら) 弟日(おとひ)、僕(やつこ)らま。 |
小楯、是に由りて、深く奇異(あや)しぶ。更に唱(い)はしむ。天皇、誥びて曰はく、
石上(いそのかみ) 振(ふる)の神椙(かむすぎ)、本(もと)伐(き)り 末(すゑ)截(おしはら)ひ、市辺宮(いちのへのみや)に 天下(あめのした)治(しら)しし 天万国万(あめよろづくによろづ) 押磐尊(おしはのみこと、父である市辺押磐皇子)の御裔(みあなすゑ)、僕らま。 |
小楯、大きに驚きて、席を離れて、悵然(いた)みて再拝(をが)みまつる。承事(つかへまつ)り、供給(をさめたてまつ)りて、属(やから)を率ゐて欽(つつし)み伏(つかへまつ)る。 |